森鴎外と奈良
鴎外と奈良の関わりは、長い陸軍の勤務を離れて、帝室博物館総長になった大正七年(一九一八)からです。この職は東京、京都、奈良の三博物館の最高責任者で、秋の曝涼のために約一ケ月前後奈良の博物館官舎に単身赴任していました。彼の正倉院での仕事は、晴天の日は正倉院が開扉されるので出勤、宝物の点検、見学者等の応対でした。しかし、雨天は曜日に関係なく閉扉されるので、有名古寺や由緒ある小寺まで、こまめに訪ねています。
大正十一年雑誌『明星』に発表された鴎外の「奈良五十首」は、この奈良出張中の折にふれての作です。この中に郷土史的な知識を持たないとわからない歌があることが、日ごろから奈良郷土史に関心をもたれている著者には面白いテーマとなりました。「奈良五十首」のほか、鴎外の手紙や日記から奈良で出会った人や物、訪れた寺や仏像などを追い、その由来にも話が及びます。
喜多野診療所長のかたわら長く郷土史研究に取り組んでこられた著者が、奈良県医師会の雑誌に連載されたもので、本書ができる前に九十四歳で逝去され遺著となりました。