吉野仙境の歴史
吉野の「仙境の歴史」を、10人の専門家が分担執筆した吉野の通史です。
近年の発掘で、宮の平遺跡や宮滝遺跡から、縄文早期〜弥生時代の住居跡などが出土しています。首長の墓とみられる吉野川沿いの円墳は、六世紀後半から七世紀前半のもので、吉野の古墳時代はごく短いです。神武天皇の吉野平定説話には異郷視された山人の姿で描かれます。この地域が、壬申の乱で一躍表舞台となり、持統天皇が足しげく通った吉野宮や、聖武天皇の吉野離宮などが宮滝の地に眠ります。
もともと吉野は「良き野」のことで、集落に近い山野を意味し、吉野川の北岸、竜門岳の山麓をさしていました。奈良時代には、吉野は神仙境とみなされ、僧侶の山林修行の場となりました。吉野川の激流は、吉野に旅をした万葉びとの心をとらえていましたが、平安時代は雪の名所、平安末期に花の名所として定着します。修験道遺跡調査では、山上蔵王堂の起源は平安時代の前半期とわかりました。南朝の支持勢力も修験寺院を含む真言系寺院に連なる在地武士でした。南朝の皇胤、遺臣は、南北朝合一後も復活運動を続けました。今も吉野の人々の南朝への思い入れは深いです。
江戸時代の吉野では、「杉丸太」をはじめ「楮・漆・茶・たばこ・葛・わらび」などが産物でした。吉野山を訪れる人々も増加、吉野山の民家の四割半が諸国からの参詣人を相手にしていました。明治初年の神仏分離令では、蔵王権現は神号に改められ、僧侶は還俗を命ぜられました。のちに金峯山寺蔵王堂は復活したがその傷跡は大きいです。ナショナリズムの高揚の中で、後醍醐天皇を主神とする吉野神宮が誕生します。
鉄道が敷設されると、春には「吉野行観桜列車」が運行され、ロープウェーも開業した。昭和11年に吉野熊野国立公園に指定されたが、戦後、多目的ダムや道路の建設で、観光化すると同時に自然破壊を引き起こしました。
本書は、ユネスコ世界遺産に登録された吉野の理解を深めるための恰好の書であると思います。