氷室神社文化興隆財団

近世吉野林業史

近世吉野林業史

谷弥兵衛著 思文閣出版

吉野林業地帯は、奈良県吉野郡川上村・東吉野村・吉野町・下市町・黒滝村・五條市東吉野町・大淀町です。吉野材は、書院建築に使用される丸太として名高かったのです。伐期は25年ないし30年程度でありましたが、密植林の樹齢20年や30年の木は、庶民の家なら十分に柱になりました。

17世紀になると、材木需要の増大によって、焼畑に杉や檜を植林して育てた方がはるかに有利になりました。小区画の山地が多いのは、零細な百姓が各自の所有する焼畑を植林地に変えていったからです。享保の頃(1716~1736)には山は杉に変わり、採取的林業から育成的林業へ移行していきました。吉野川の浚渫が進められて、吉野川の奥地からも流筏が可能になりました。

灘地方の清酒の容器に利用されると、吉野杉の名声は一躍天下に広まりました。酒樽の原材料である樽丸は、80年生~100年生の杉を原料としたので、地元農民が植林し、ある程度まで栽培してから販売することになりました。これが、土地と立木の所有権を分離して売買する借地林業制で、18世紀の中頃以降広がりました。百姓が立木を村外者に年季売りして、自らは山守となって山林を経営し、間伐・皆伐時に材木の売代銀から地代を受け取り、皆伐後は跡地を返してもらいます。

吉野林業は、17世紀中ごろ2万5000床(とこ)であった生産が、19世紀初頭には10万床に拡大しますが、材木商人の同業組合が、流筏の流通機構を立ち上げ、材木の流通を確保するとともに、和歌山・大坂の材木問屋の支配をも許しませんでした。明治元年に、奈良府役人から伐り出す材木を新政府の産物に取り立てる話があったとき、これを拒否したのは、材木商人が民営林業の心意気と自負を持っていたからであるといいます。